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またも 大地震

22日、ニュージーランド南部のクライストチャーチ付近で強い地震が起きた
模様とのニュースが飛び込んできた。

間もなくリアルタイムで現地の映像も届いたが、倒壊した建物、救助される人、
泣きながら、崩壊した歴史ある建物を見上げる人々と、その様はまるで映画の
いちシーンでもあるかのようだ。

ニュージランドも又日本と同様に地震の多い国であり、今回地震が起きた場所
には約2800名以上の日本人が常住していると聞く。

この国には、語学研修による交流によって個人的に知る人が居ることもあって
外国のできごととは思われない。


日本の“ことわざ”に 「地震 雷 火事 親父」がある。

昔、人々が毎日の生活の中で恐れていたものをこわさの順に並べたもの。時代が
変わって、順に揚げる‘もの’については異議を唱える声もあろうが、「地震」
だけはハイテクの現代にあっても、その位置を譲ることはないのではないだろうか。

昔の人々が、その発生を予測できなかった地震を最初にあげているところにも、いかに
自然の災害を恐れていたかがよくわかる。



鎌倉初期の随筆『方丈記』に、作者( 鴨 長明)自身が体験した「元暦の大地震」につ
いて、次のように記している。




<元暦の大地震>

また、同じころ(1185年のころ)であったか、例をみないようなすさまじい大地震が起こるようなことがあった。その様は並大抵のものではない。

山は崩れて河を埋め、海は傾いて陸地を水びたしにした。地面は裂け水が湧き出し、岩石は割れて谷にころげ落ちた。渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。

 都の内外では、寺の堂も塔も、あらゆる建物は一つ所として被害を受けなかったところはなくまともなものがない。地面からは塵が舞い上がって煙のようだ。

大地が揺れ動く音、家が壊れる音はまさに雷のようである。家の中にいればたちまち押しつぶされそうになる。外に走って飛び出せばまた地面が割れ、裂ける。人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。

また龍ならば雲にも乗れるだろうが、上るわけにもいかない。何であれ恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震なのだと実感したことだ。





既に、中学校の「国語」教科書に「古典に親しもう」として『方丈記』の冒頭文
をみることもあろう。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と栖と、
またかくのごとし。



『方丈記』とは、作者が隠遁して日野山の方丈の庵に閑居するさまを記したことに
由来する。そして、その方丈の庵が復元されて 見ること可能であることを知った。

     方丈

京都、下鴨神社の入口からすぐのところに標識が出ている、摂社 河合神社

ここに鴨長明(1155年(久寿2)~1216年(建保4))が住んだ「方丈」が復元されている。


説明板上写真では白く反射してしまった説明書き。

これによると、鴨長明は、五十歳のとき大原に隠遁した。その後 世の無常と
人生のはかなさを随筆として著したのが『方丈記』である。

大原からほうぼう転々とし、移動しているあいだに「栖」として仕上げたのがこの
方丈の家、移動に便利なようにすべて組立式となっているということだ。



     境内

河合神社 に入ったところ。右側に方丈の庵の一部が見えている。その大きさの
見当がつこうというものだ。


方丈の復元については、『方丈記』から読み取れる資料をもとにして河合神社の
斎庭[ゆにわ]に、790年の時を経て再現がかなった。

復元にあたっては、京都工芸繊維大学名誉教授中村晶生先生の監修のもと 株式会
社安井杢工務店の多大の協力を得て実現したということだ。この方丈、組み立て式
で簡単に移動ができ、組み立て直せるという。  大いに驚かされたものだ。


ところで、なぜ下賀茂神社の摂社に鴨長明(かものちょうめい)かということであるが、

長明は、久寿二年(1155)、下賀茂神社の禰宜(ねぎ)、長継(ながつぐ)
の次男として泉の禰宜の館(現在の京都大学北方一帯)で生まれた。下賀茂神社の
禰宜の嫡子は6才あるいは9才で神職の道にはいるのが習わしであった。

長明が7歳のとき、第六回式年遷宮が行われ、それを機会に神職の修行についたと
されている。ただし、そのころは、福原へ遷都、乱につぐ乱と激動の時代を経てお
り、長明の神職の道についてその後は明かになっていない。


私は、河合神社へは先ず下賀茂神社に参拝、見学したあと神社をとりまく糺(ただ
す)の森をぬけて行く順路をとった。

いまこうして思い返してみても、やはり、この道の方をおすすめしたい。





方丈記  大地震について


<二一 子を失った武者の話>

 そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で突然土塀が崩れ、下敷きになって埋められ、押し潰された。二つの目は一寸(3センチ)ばかりも飛び出してしまった。

その子供の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。気の毒でならず、これこそ親の情というものかと思ったことである。


<打ちづづく余震>

 このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶えず続いた。普通にびっくりするほどの強い地震が、一日に二三十度は下らない日はない。

十日、二十日と経過していくと、だんだん間遠になって、一日に四五度となり、二三度、あるいは一日おき、さらに二三日に一度など、おおよそ余震は、三カ月ばかり続いただろうか。


<人は災禍を忘れてしまう> 

四大災害の中では、水・火・風は常に害をなすものだが、大地に至ってふだん特別変をなすことはない。

昔、文徳帝の齋衡年間(854-857年)に大地震があり、東大寺の大仏の頭部が落ちたりといったひどい被害があったが、それでさえも今回の地震ほどではなかったという。

その当時は人々は互いにどうしようもないことを嘆きあって、心の憂さを晴らしているように見えたのだが、年月が経過してくると、このような災厄を日常の話題にのせる人もなくなってしまった。


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プロフィール

Keiko

Author:Keiko
写真:【 唱歌:「案山子」の立つ見沼氷川公園】

こんにちは! 日本古典文学
研究に従事しているものです。
子育てがほぼ終了という頃に
大学院に入学、現在は 古典
文学講座の講師をしています。

こちらには 自然と文化と歴史
を感じながら‘知るを楽しむ’
日常を記しています。         
     

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