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一重の山吹の花です。

越生の歴史公園「山吹の里」だけでなく、
JR八高線・東武越生線越生駅からバス〈黒山行〉、上大満(かみだいま)下車

街道沿いヤマブキ

「山吹街道」とよばれる道路に沿って咲く花もまた「一重の山吹」でした。

「山吹街道」を30分ほどのぼっていくと、右手に龍穏寺(りゅうおんじ)の
境内がみえてきます。

入り口の標識入り口の標識

龍穏寺山門
龍穏寺の山門

室町幕府足利義教が上杉氏に命じて、衰退していた寺院を「龍穏寺」として再興させた寺と伝わります。
その後、たび重なる戦乱により消失しましたが、文明4(1472)年に太田道真(ドウシン)・道灌(ドウカン)
父子によって再建されて、以後戦国時代まで武蔵国の曹洞宗の中心寺院として発展しました。

ここに太田父子の墓があります。

太田道灌像
太田道灌の像 鷹狩りの出で立ちです。

境内には

江戸城外堀の石
江戸城、外濠の石が置かれていました。

太田道灌築城の江戸城、その外濠にかかる、神田橋橋台に使用された石です。首都高速道開設の際に
取りはずされ、当山に寄贈されたものとの説明がありました。

山門をくぐって右手には 経堂(県文化財指定)が見えます。
経堂

壁面
外壁には道元の一代記の彫刻などがほどこしてありました。1841年に建立された土蔵造りの建物です。

太田道真、道灌父子の墓は撮しませんでしたが、形は中世期の供養塔の形をした、小さめの墓石でした。


太田道灌ホームページ→ここから

駅前に“竜神”がお目見え!見沼の竜神伝説

もう1ヶ月ほど前になりますか・・東浦和の駅前に竜神が現れました。

駅前龍神

ニュースで、亀有駅中央商店街にある「両さん」(人気マンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公)
の銅像の一部が何者かに壊されたというので、器物損壊事件として騒ぎになっていることを知りました。

3月に設置したばかり、というので、(同じ時期なんだ)と思って、それで見に行った時の写真です。
雨上がりで、濡れたあとが斑に写ってますが、この形ですから、こちらは破損の心配もないようです。

ここに、なぜ竜神なのか。ここ見沼の地に伝わる『見沼の竜神伝説』を語り伝えようというものです。
古代より、こういった湿地帯では人々がいかに水害と闘ってきたか、干拓に尽力してきたか、伝説や
竜神の怒りをおさめる“祭り”にもうかがわれます。



江戸期、井沢為永が見沼干拓の事務所にした萬年寺では竜神のために神灯を掲げたのですが、
その神灯は、毎晩美女(竜神)によってともされた、という話が伝わっているのです。

平安時代に書かれた文学作品『更級日記』【菅原孝標〈たかすえ〉の女〈むすめ〉の作】のはじめには
父の任国(現在の千葉県)から帰京する際に、武蔵の国を旅する場面があります。

この『更級日記』(康平2年=1059年以降成立か)に出て来る「竹芝伝説」、その竹芝寺は、
この見沼田んぼも含まれる一帯、大宮神社あたりに位置していたという説があるそうです。
「日本史・環境史」の立場からの研究発表でしたが、
そういった見方が出来る根拠の一つに、近年と比べて、当時はかなりの面積が水没していたことが、
帰京の為に通った武蔵の国についての紀行の文章からうかがえるというものでした。

今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、
むらさき生ふと聞く野も、蘆荻(あしおぎ)のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、
高く生ひしげりて、中をわけゆくに、たけしばといふ寺あり。


(今は早くも武蔵の国にさしかかった。とりたてて風情のある所もみえない。浜辺も白砂というわけでもなく、まるで
 泥のようで、紫草が生えていると聞いていた武蔵野も、ただ蘆や荻ばかりが高く生い茂っている。馬に乗った侍が
 携えている弓の先も見えないほど高く生い茂っている中をかき分けて進んでいくと、竹芝という寺がある。)

今も“竜神”を祀るこの地の近くを平安期に『更級日記』の作者が通って行ったとも考えられることになります。
これまで「竹芝寺」は東京都港区三田の済海寺がその跡ではないかとされていましたので、大宮周辺説があることを
知った私は、驚くとともに何か胸おどる思いで聞き入りました。
江戸期の干拓事業に纏わる“竜神灯”伝説との繋がりがみえたような気持になったものです。

やっと晴れて、気持ちの良い日曜でしたね。駅入り口交差点通りの街路樹「ハナミズキ」の色が増して
きました。
はなみずき


エル
竜神も、ハナミズキも・・・ボクには・・・見えないよ!抱っこしてくれないかなぁ~

見沼代用水と徳川吉宗

今朝は気温もそれ程低くないようです。外は靄がかかっていて視界の悪い日、
こんな日は、間もなく靄が薄れていって、新緑の美しい風景が目前に広がる・・・と、
さっそく、見沼田んぼの、いつもの散歩コースまで急ぎました。
出勤、通学時間帯のちょっと前、
程なく街も自然も動き出して活気づき始める前の贅沢なひとときです。

しゃくなげ1
植木畑のシャクナゲ

シャクナゲ
ピンクの花がよく咲いていました。

東縁(ひがしべり)の見沼代用水沿いを、総持院より川口寄りから、見沼自然公園へ向かって歩きます。

用水
もうすぐ田植えの季節ですね。用水の水かさが増しています

鴨
鯉と鴨
用水で遊ぶ鴨と並んで鯉が泳いでいるのが見えています。


鷲神社
用水対岸、木の間から鷲神社が見えています。

この時期は木々の葉が日々緑を増していくのが神社の見え方からも分かります。
連休明け頃には、木々に覆われて、見えにくくなるのです。
というのは・・・・

夏の鷲神社
これは昨年の夏、鷲神社を鳥居のある側から撮ったものですが、
神社は深い緑に包まれてしまいます。
散策路から神社が見えているのも、あと少しでしょう。


20100421234404f37雉
雉の鳴くこえが聞こえています。確かに、あちらの方から・・・と目を凝らしますと、
ここには‘点’でしか見えていないのですが、チョン、チョン、トコトコと野の上を移動しながら
何かを食べているような雉の姿を認めました。

遠くに、自転車通学の生徒たちの姿が見え始めました。お喋りする声、笑い声が
鳥の囀りほどに ここまで届いてきて、
他の様々な鳥のこえに、聞き間違えそうでした。

この見沼代用水は、8代将軍徳川吉宗の命を受けて、享保16(1731)年に
井沢弥惣兵衛為永が行なった見沼の干拓、新田開発の一環として作られたものだそうです。
利根川から代わりの水を引く工事をしたところから、これを“代用水”と呼びます。
代用水は、江戸への舟運のために「通船堀」の閘門式(こうもんしき)運河によって
芝川と結ばれました。この郷で穫れた穀物を、舟で江戸まで運んだのです。

徳川吉宗といえば、享保の改革、米将軍と呼ばれた、など社会科で学びましたよね。
歴史上のこの方、土地の人になった私にとって、なんだか近い人物のように感じられます。

閘門式運河は東浦和駅側にあり、大正期まで利用されていたとか、
現在は見沼通船堀公園として整備されています。
遊歩道から、復元された関を 今も 見ることができますよ♪



新しい分野を増設しました。

私が仕事としてかかわっている、古典文学講座の内容をご紹介しています。
こちらから(←ここをクリックするか、左のカテゴリをクリックして下さい)

歴史探訪ー時代を超えて伝えられる話

4月15日の朝日新聞埼玉版に、「静御前」の墓がある栗橋についての記事がありました。
久々に晴天が続いて、春らしくなったので、出掛けてみることにしました。

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栗橋は日光街道の宿場であり、源義経を追って奥州へ向かった静は、この地で病にかかって亡くなり、
葬られたと伝わります。
奥州平泉の藤原氏を頼って逃れた義経が討たれたと聞き、静御前は悲しみのあまり剃髪して菩提を
弔おうとしたのでしたが・・・。1189年のことです。静は21歳、義経の死については後に諸説が
うまれてはいますが、静が義経の死を知って剃髪したとすると義経は享年30歳です。
『平家物語』に登場する歴史の中の人物としてみたとき、こんなにも若い二人の悲恋であったとは・・・
改めて、権力攻防の戦いに翻弄された人の生き方に思いを巡らしたひとときでした。

一角が公園のように綺麗にされていて、一本の桜の木が植えられています。

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まだ、八部咲きです。里桜の一種だそうですが、「静桜」と名付けられていました。


このお墓がある「栗橋」は東武伊勢崎線の栗橋駅の近くでした。旧栗橋町、現久喜市になるそうです。
ここに行くために、いろいろ調べているうちに、思わぬ発見がありました。

鎌倉時代の歌人西行が奥州に向かったときに参拝したというお堂(後の東大寺)跡が、杉戸町の下高野に
あるというのです。

行ってきました。

永福寺の門前に「西行法師見返りの松碑」があります。町指定史跡でその説明によると

「西行法師が東北地方への旅の途中、ここ下高野のお堂に参拝したが、激しい雪の日の寒さと
旅の疲れとで病に倒れ、村人たちの親切な看護を受けた。静養中に眺めた松をとても愛し、病気が
治ると村人たちにお礼を言ってその松を振り返り、振り返り再び旅立った。
その後、村人たちは、この松を、西行法師見返りの松と呼んだと伝えられている」ということです。


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ちょっとこの松は若すぎませんか?松のお陰で埋もれて建つ碑を見つけやすかったのですが・・・。
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これが「見返りの松」の碑がある永福寺です。

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永福寺から30メートルほど行くと、西行が参拝したというお堂(後の東大寺)跡があります。
元気になって、村を離れる時、西行が何度も振り返っては見たという松の木はこの辺りにあったのでは
ないでしょうか。

漂白の歌人西行ですが、この時代の旅は困難極まることも多々あったことでしょう。

旅を「行楽」以外の何ものでもなくとらえている現代の私は、街道を行く西行の姿を、しばし想像し、
これが、文治8年(1186)69歳の時だと知って感心(?)し、
さらに、静が栗橋で亡くなったという年と2~3年しか違わない時に西行が同じ街道を奥州に向かったと知って、驚きました。


順序としては、杉戸から栗橋へ、そのあとは俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ひでさと)ゆかりの唐沢山へ、久しぶりだったので、足を延ばしました。栃木県南西部、佐野市北東部に位置します。

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唐沢山の神社P4150054.jpg
山からみる景色

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ボクはもう疲れました!勘弁してよ~


昨日、今日と春らしい良い日が続きました。でも、又気温が下がるとか、野菜農家は悲鳴をあげています。




美味しそうな~大根が!

私の家の近くに、JA直売所があります。

農協

朝8時半に開くっていうのが助かるんですよね。朝型人間の私にとっては特に。
買い物は10時前に済ませておくと、一日がスムーズにいくのです。
先日も、出掛ける前に食事の下ごしらえをしておきたかったのに、あっ~生姜がない!
で、ショウガナイから集積所へゴミ出しに行くついでに足をのばして、野菜直売所にいきました。
入り口の一番手前に、今畑から抜かれたばかりで、綺麗に洗われた大根たちが積まれています。
大根も立派でしたが、なんといっても、その葉っぱの活き活きとしていることといったら・・!
大根そのものよりも長い葉で、その先端まで反り返るまでにピンピンなんです。
生姜が置かれている所にたどり着く前に、思わず大根を抱え込んでしまって、
「ダメダメそんなに今買ったって、直ぐに調理する時間ないし、冷蔵庫に入れたままになるなら、
後日買った方がいいんだから・・・」と制止する声が聞こえてくるのですが、ダメ! 買ってしまいました。
で、とりあえず大根の葉だけは、下ゆでして、細かく刻むと、大きめのタッパー一杯になりましたが、
冷蔵庫にしまって、大根の方は洗い直して上下二つに切り分け、それぞれをラップにくるんでから
野菜庫に収めて出掛けることになりました。さて、大根料理は何にしようかな・・・♪ 柚子の季節だとネ
柚子大根は外せません!

昨年度の古典文学講座では『蜻蛉日記』を扱いました。

『かげろふのにき』は平安時代、『源氏物語』の作者として伝わる紫式部が読んで作品構想に取り込んでいるとみられているもので、“藤原道綱の母”の日記文学ですね。
夫はかの道長の父兼家です。作者は妻としての嫉妬と苦悩から芸術と母性愛とに目覚めていくあとを描いていますが、その中の「初瀬詣で(長谷寺参詣)」の段に、この柚子大根が登場するのを思い出しました。

『蜻蛉日記』
「橋寺といふ(ウ)ところにとまりぬ・・・旅籠どころとおぼしきかたより、切り大根(おおね)、柚の汁してあへ(エ)しらひ(イ)て、まづ出だしたり」のを、作者である道綱の母は「あやしう(シュウ)忘れがた(ト)う(ウ)をかしかりしか」
  と述べているのです。

現代語ですと
「調理場と思われるあたりから、きざんだ大根を柚子の汁であえて、最初に出した。このことが興味深く、忘れがたい思い出になった」
  
これを読むと、上流貴族は良い食事を摂ってはいたのでしょうが、庶民の方が、素材を活かした気の利いた食べ方を心得ていたのではないかなと、私は思うのです。

そして、後日テレビの料理番組で、「京都のおばんざい」ということで杉本家に伝わる柚子大根が紹介されたのを見た時に、

「あっ これに近いものだったんじゃないかな。‘道綱の母’の気持を癒した柚子大根って」と直感したものです。

大根
皆さんはどう思われますか?

‘道綱の母’の和歌は『小倉 百人一首』の53番に採られていますが、

歎きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

今だったら
 昨日も今日も来ないあなたを待っては嘆き、涙で袖を濡らしながら今夜も又私は独りで眠るのです!
 あなたはお分かりですか?独りさみしく寝ている私にとって、夜明けまでの時間がどんなに長いものかを(涙)
とダンナの方に言ってやったというもの・・・。

通い婚で、しかも一夫多妻の当時(平安時代)のことです。
当時の「世の常」ではないほどに夫への深い思いを抱きつづけた女性。
愛執の辛さから自らを、「在るか無きかの蜻蛉の身」と嘆いて綴ったのが『蜻蛉日記』でもあるのです。

ただひたすらじっと待つ妻なんて、絶対にイヤですよね。

女性の「ひとり旅」には・・・どんな理由が?

ぽかぽか陽気に誘われて、今日などまたぶらっと「ひとり旅」なんてしたいな~と、
今日はそんな気分になる一日でした。

ここ8年ほど、一家そろって、又は夫婦で数泊する旅行には出掛けたことありません。
実家に行く時も(岐阜と函館なのに・・・)せいぜい一泊ですね。
原因は全く臆病な愛犬エルを、ホテルに預けることも一緒に連れていくことも出来ないからです。

誰が?当のエルが、というよりも、飼い主の方が心配で、気になって・・・ダメなんです。

それで、マイ・ブームになったのが「ひとり旅」という訳です。

鎌倉時代に、京の都から鎌倉に向けて旅立った女性で、その紀行文を「日記形式」の作品に
残した女性が二人いました。

一人は『十六夜日記』(いざよいにっき)の著者である阿仏尼(あぶつに)です。
和歌の家として今につたわる「冷泉家」の祖、礎を築いた女性ですね。
藤原定家の息、藤原為家の後妻となって為相(ためすけ)を生んだからです。

そして、もう一人は『とはずがたり』(トワズガタリ)という作品を残した
後深草院二条(ゴフカクサイン・ニジョウ)という上流貴族(清華の家)の娘です。後深草院(天皇)に愛され
後宮(妻たち)に加わったのですが、御所追放の身となり出家した女性です。

二条の数奇な運命や波瀾に富んだ人生についてお話したいのは山々なのですが、
ここで触れるのは、あの時代の「女性の旅」です。ある意味 命がけの旅であったと思われます。

エガラ神社
二条も訪れたという「荏柄(えがら)神社」(鎌倉)


話は又我が家の“訳ありの旅事情”に戻るのですが、
夫婦揃ってちょくちょく出掛けるのは「プチ旅」で、その行き先の一つに
「鎌倉」があります。湘南新宿ラインで、赤羽からグリーン車に乗って行くのです。
車内販売も利用して、旅気分を味わいます。

鎌倉に行くと巡るところに事欠かないのですが、
『十六夜日記』や『とはずがたり』の作者の滞在した場所やゆかりの場所を訪ねて、
都(京都)に思いを馳せて涙した女の境遇と「行動する女性」の範としての姿を・・・
想うのです。

歴史に名を残す、名が残ってしまう、如何に拘わらず、今に生きている私達もまた同じように
いずれは 歴史(=過去)の人になってしまうに違いはないのですから。


花いかだの上に、鴨が・・・

花筏とは、ハナミズキ科の木の名まえでもあるのですが、
桜の花が散って花びらが水に帯状に 浮かんで流れるさまをいいますね。
今朝の散歩は、「花いかだ」になった見沼代用水沿いに、東浦和駅に向かいました。
浦和明の星女子中高校を囲む位置にある用水を、学校側は「お堀」と呼んでいるとか、
見事な桜並木の下を流れる用水です。

P4100004s花いかだ

朝8時過ぎになると、すこーし雨が落ちてきました。
小学一年生になった隣の「はなちゃん」が、お姉ちゃんの「ちかちゃん」と一緒に登校します。
もうすぐ一歳になる「はるくん」を抱っこしたママが集合場所まで送って行くようです。
「はなちゃん」だけが、傘をさしていました。

それで、私も傘をもって、出かけることにしました。

雨は途中から激しく降り出しました。
雨に打たれた桜は、それでも凜として咲いています。
先に散りゆく花びらが、下の用水に浮かんでながれます。
延々と続いて流れる用水は、川上の何百本にもなる木々からの
花びらもまた引き受けて、流れていくのでしょう。

北の国に帰り損ねたのか、ここに住み着いたのか・・・
春になっても用水に遊ぶ鴨の姿がみられます。

胸で花びらをかき分けて泳ぐようすが、まるで
氷を割りながら進む南極船のようで・・・カッコよくて、
可愛かったですよ。

道路整備の際に、山の土が使われたのでしょうか、
見沼の芝川土手や道路沿いに
イタドリの赤い芽が出始めました。

P4100001sイタドリ


先日ラジオできいたのですが、
地方によって呼び名が違うようで
「ドンパチ」というところもあるようですね。
私は子供の頃(岐阜の山国育ちです)「タケドロ」と言っていました。

このイタドリは塩漬けにして、のちに醤油と酢で和え物にして食す。
煮物にする、白和えに、と色々な食べ方があるそうです。

我が家では、若芽のころに“天ぷら”にするのが好評ですね。
「タラの芽」の“天ぷら”と同格に喜ばれています。

武蔵嵐山から都幾川の建具会館へ

行楽は・・・旅とは決していいませんよね。時間が短くて、目的が「遊び」だからでしょうか?
今日は、車で武蔵嵐山から慈光寺のある都幾川村(町?)へ、「遊び」に行ってきました。
その昔、寺社参詣は、貴族女性にとって、非日常であるがゆえに、唯一許された「旅」であり、
行楽にもなっていたようで・・・こんなことを思ったわけです。

嵐山(らんざん)の名称は、京都の嵐山(あらしやま)に風景が似ているところからこの地名に
なったともいわれています。
この季節ですと、なだらかな山々が桜の花で彩られて、なるほど渡月橋から見る山の景色を思わせます。

武蔵嵐山

都幾川村


また、この町には「いざ鎌倉へ」と馳せ参じるための街道が通っています。
鎌倉街道上道(かみつみち)下道(しもつみち)と入り組んでいるようですが、
武蔵武士であった畠山重忠の菅谷館跡が今では嵐山町の歴史資料館になっています。
重忠は『平家物語』にもその活躍が伝えられ、源頼朝に仕えていました。
鎌倉での屋敷は「鎌倉八幡宮」の東南出口あたりにありました。今そこ建てられた碑が
屋敷跡の目印になっています。

今日は鎌倉も大変な人出だったようですね。鎌倉祭りだったとか、
それに大銀杏のこともありましたしね。

天気予報では、「気温は高くなっても曇りがち・・・」だったと思うのですが、よく晴れました。
初夏の陽気の中、同行したエルマー(愛犬チワワ)もよく歩きました。
ボクも食べたい
「ぼくも、食べたい!」

さすがに、疲れたようで、いつもより早くソファーで天井向いて、足を広げて寝てしまったのを、
そーっと 彼のベットに入れたところです。 お・や・す・み!

そうそう、料理の素材の収穫はいろいろあったのですが、「くるみの木の芽」は美味でした。
天ぷらにしてみましたが、ごま和えもお薦めだそうです。

歩け、歩け・・・これが旅?

運動する時間がなかなかとれません。以前は太極拳とかスイミングを習っていた時もあったのですがね。
忙しくなったわけではないのに、年齢とともに何かをするためには他をあきらめなければならなくなって
未だに再開出来ずにいます。

今は「歩け、歩け」のウオーキングだけですね。
どこを歩いても良い環境にめぐまれて、気分転換にもなります。
一日に14キロ、私の歩数だと8000歩を目標にしています。

これを続けて体力もついてきた気がして、
3月には、二泊三日の東北一人旅を楽しんできました。

銀河鉄道線から渋民村
二戸から銀河鉄道線に乗る。渋民村辺り。

新婚の家
盛岡〈石川啄木新婚の家〉

宮沢賢治
花巻〈宮沢賢治記念館〉夕方になってしまった。


あえてこれを旅行とは言わずに、といいたいのです。が、むろんすべて交通機関に頼った移動、
やはり旅行というべきでしょうかね。西行や後深草院二条(女性)や芭蕉のを思うならば余計に。

今日は午前中忙しくて、夕方になってもまだ1000歩近くになっているに過ぎない状態。
それで、ちょっと遠くのスーパーまで、歩いて買い物に行ってきました。

桜は、もう枝先に緑色の葉が出ていますね。

青葉さへ 見れば心の とまるかな 散りにし花の 名残と思へば   西行

西行の和歌

西行ほど桜を詠んだ歌人は他にいないでしょう。


願はくは 花のもとにて 春しなむ その如月の 望月のころ
(願うことなら桜の花のもとでこの春死にたいものである。釈迦入滅の2月15日のこの日に―)

まことにこの歌のとおり、建久9年2月15日、西行は西に向かい、経文を唱えて極楽往生した
と伝えられる。(『西行物語』より)

西行
〈西行物語絵巻の一部〉

西行の俗名は佐藤義清(のりきよ)です。僧名は円位で、西行は号ですが、「さいぎょう」の
名だけはよく耳にします。元永元年(1118)の生まれなので、平安時代後期の人ですが、たとえば
松尾芭蕉の作品などにもみるように、鎌倉時代以降の多くの文人に、その和歌から生き方まで
憧憬の的になった人物でもあるからです。

見沼の桜もこの週末が最後の見頃でしょうか。東縁のほうが西縁より幾分遅く開花する分、散るのも遅い
ようです。今日はイタドリを摘みました。たんぽぽなども天ぷらにして、春を食べようという魂胆です(笑み)。

ゆゆしきまでに・・・

今日はよく晴れて、青空を背景に、桜の花も映えました。
あいにく晴れた日は家事も多くなって忙しく、ゆっくり桜見物をしてもいられません。
用事で出掛ける駅までの道のりを、車をやめて‘急ぎ足での桜見物’にしてみました。
公園も学校の桜もきれいでしたが、もう花びらが地上を飾りはじめています。

昨日、西縁の桜並木の下を散歩したときに
「ホッホ、ケキョ~」鶯の初聞きをしました。

西縁の桜

毎年春になると、我が家の裏手の屋敷林から鶯の鳴き音が聞こえるのですが、今年はまだ・・・、
「例年より寒い日が多いからかしら・・・」
家人と話していたばかりでした。

鶯は別名‘春告(はるつげ)鳥’ともいい、春鳥とも書きますものね。
2月27日に初音を聞いたと書いていらっしゃる方もいます。
毎年鳴き声を楽しませてくれた‘ウラの鶯ちゃん’は引っ越してしまったのかもしれません。
今年もまた周辺の植木林だった場所が、何カ所も駐車場や集合住宅に変わりました。

ところで、西縁の桜は樹齢の長い大木の並木道です。しかも天候おもわしくない早朝のこと。
見上げれば、うす紅桜の花群が雲のように覆い、黒い幹や枝とのコントラストが
その美しさを引き立てて、妖艶な光を放つかのようでした。
ゆゆしきまで(不吉なほど)に・・・”というのは大袈裟かなと思って見上げました。

桜の下を一緒に歩いていた家人が
「西行の、あの歌・・こんな桜なんだろうな。花のしたにて春死なん・・」とつぶやきました。

新天地

ここ、「見沼たんぼ」のちかくに越して、もう8年目に入りました。
四季折々の素晴らしい自然環境を楽しんでいます。

新天地


そして、私にとっては記念すべき今日(ブログを始めた日)はまさに春爛漫!
「見沼たんぼ」は用水沿いの西縁(にしべり)、東縁(ひがしべり)の桜並木で
縁取られて、新緑の芽吹きの木々と、植木畑の白、黄、ピンクといった花の競演が
始まった時期でもあります。

小さな庭の花たちも、春を忘れず次々と芽を出し、葉を広げて蕾みを膨らませています。
我が家のシンボルツリーにしようと、前面に植えたジュンベリーの木は3メートルほどの
背丈になって、広げた枝一杯に純白の花を付けました。

先日見沼の竹林で採れたものということですが、筍をいただきました。
昨日茹でてあく抜きをしておいたものを、今日はタケノコご飯にしたり、木の芽和えにした
りして、おいしくいただきました。

獨協大学オープンカレッジ講座に向けて

5月6日木曜日より、獨協大学のオープンカレッジの教養講座として「『とはずがたり』を読む」を担当いたします。
今後、こちらには 講座の内容に関する記事を書いていく予定です。

ポスター


受講申し込み  3月15日~5月1日  獨協大学エックステンションセンター TEL:048-946-1678
FAX:048-943-3234
URL〈http://www.dokkyo.ac.jp/extension/oc/index.htm〉

古典文学講座その(1)ー『とはずがたり』解説

『とはずがたり』(トワズガタリ=問わず語り)という作品について(その1)

『とはずがたり』は鎌倉時代の1306年頃に、後深草(この時既に天皇を引退していたので天皇ではなく)の上臈女房(身分上高い女官)として仕えた女性「二条」(にじょう・小路名)が、自己の半生を物語的構想をもって書き記した作品です。二条が14歳の時の新春に、初めて正式な女官として御所の、正月の儀式にデビュ-した場面からこの物語は始まります。そして、最後場面は作者49歳の時のことで、作品は終わっていまして、これが1306年のことであることが分かっています。作者の没年は不明です。歴史上、1307年に、『とはずがたり』最終場面に登場している遊義門院(ゆうぎもんいん・後深草院の内親王)は没しています。ところが『とはずがたり』は、遊義門院との再会を喜び、和歌の贈答により今後が期待されるかのようなところで終わっています。門院の死については触れていません。勿論、文学作品として、意図的にそこまでの物語にした可能性もないわけではありません。どちらにしても、この作品は前述のように1306年より後で、それほど年数を置かずに成立していると考えられます。
文芸作品の様式としての種別は、「日記文学」に入れられています。題名の「問わず語り」とは、人に問われる訳でもないのに自ら語るという意味あいの古語です。作者が付けた題名なのか、後の人がつけたものかは不明ですが、物語風に語られてはいても、自らの半生を綴る形の自叙伝と受け取れるのです。平安時代に成立している『紫式部日記』のような記録を重視する女房日記とは少し異なるのですが、『蜻蛉日記』や『更級日記』の系統として「日記文学」に入れられるのですね。自分史的物語というところでしょうか。
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図をクリックすると、大きくなります。













古典文学講座 その(2)-『とはずがたり』の発見

『とはずがたり』のテキストは、現在のところ宮内庁書陵部所蔵の一冊しか見つけ出されていません。
中世までの古典文学は、ほとんど作者の自筆本は残っていないのですが、書写伝本によって諸本が伝わっており、今だに新たな書写本が発見されたことがニュースになっています。それから考えると、他に完本が一冊もなく、ただこの書陵部本一冊のみという『とはずがたり』は特異な古典文学書といえなくもありません。ただし、古典文学で、今に残らない散逸本は数えきれないほどあると想像されることからみれば、今後発見される可能性もあるわけですし、現在の時点では何ともいえないのではないかと、私は考えています。
『とはずがたり』という作品が山岸徳平博士(書誌学、文献学者)によって発見されて、人の知るところとなったのは昭和13年のことでした。当時宮内庁図書寮(ずしょりょう)にあった御文庫の目録を眺めていて『とはずがたり』という書名に目をとめたという偶然の一事がきっかけとなりました。さっそく借り出した氏によってこの本が精読され、二年後の昭和15年『国語と国文学』誌九月号に「とはずがたり覚書」と題して発表されました。だだし、『とはずがたり』の内容について取り上げることを避け、南北朝時代成立の歴史物語『増鏡』に引用されている関連記事の紹介という形がとられたために、一部の研究者の目を引くに留まりました。
その理由は、『とはずがたり』が鎌倉期の皇室に関わる秘話を大量に含んでいたことが、読んでみて初めて分かり、その頃(昭和13年から15年)の時局がら、その内容を公開するのは遠慮されたからだそうです。
『とはずがたり』が一般の前に公開されるのは、戦後になってからです。山岸氏の解題により桂宮本叢書(かつらのみやそうしょ)の一冊として全巻活字翻刻されたものです。昭和25年のことでした。
こうして『とはずがたり』は、鎌倉時代の末期近くに成立したのち、室町期に多少の享受の跡を留めてはいるものの、その後はほとんど地下に埋もれた状態で生き延び、640年近くもたって一躍この世に躍り出た作品ということになります。

『とはずがたり』 内容

『とはずがたり』全五巻  内容(あらすじ) 

巻一
14歳の春、後深草院の御所で、女房としてデビューするところからこの物語は始まる。
その夜、院から、「二条」(作者)を自分の後宮に入れたいとの意向が父親に伝えられる。そのことを知らない二条は、以前から母方の縁続きである「雪の曙」(西園寺実兼)と慕情を交わしあっていた。

半月後、河崎の実家に御幸した院によって、二条は意に反して、その愛人にされる。
院の女房という待遇は変わらぬままに、多くの后妃たちと院の寵を争うという環境に置かれる。

二条15歳の秋に父大納言雅忠が死去、孤独な身の上となった二条のもとに、「雪の曙」が忍んでくるようになった。

文永10(1273)年2月二条は院の皇子を出産するが、その後も「雪の曙」との忍び逢いは続き、
翌年9月密かに女児を出産する。
母方の叔父四条隆顕(たかあき)方で養育されていた皇子が、翌10月 夭折。二条は苦しみ、悲しみ、
西行のような境涯への憧れを強くする。
その後も 院の身近にお仕えする上女房のままに置かれる二条は、猟色な院の夜の相手をする女性を手配して
寝所に案内するという役目も仰せつかっている。ある時には、院から、異母妹である前斎宮(さきのさいぐう)
の手引きまで仰せつかることに・・・。

二条と「雪の曙」との忍び逢いは続いている。



 

古典文学講座『とはずがたり』   2010年5月6日

 『とはずがたり』について(1)            2010.5.6

Ⅰ『とはずがたり』が活字化されて一般に公開されたのは昭和25年のことです。鎌倉時代に書かれたものであるのにもかかわらず、古典文学として世に知られたのが遅いという意味では“新しい古典文学作品”といえます。

昭和13年、書誌学、文献学の研究者である山岸徳平博士が、当時の宮内省図書寮(現、宮内庁書陵部)にあった御文庫の目録に『とはずがたり』という書名があることを知り、その本を借り出し精読した。『とはずがたり』には一人の女性の半生が描かれているのと同時に、鎌倉期の皇室に関わる秘話が大量に含まれていると分かった。山岸氏は内容そのものを公開するのは時局がら遠慮されて、『とはずがたり』が南北朝時代成立の歴史物語『増鏡』の中に引用されていることを紹介する形をとり、昭和15年『国語と国文学』誌九月号に初めて「とはずがたり覚書」と題してこういう作品があることを発表した。しかし、その詳しい内容については触れられていない。
『とはずがたり』の全文が初めて活字翻刻されたのは終戦後しばらく過ぎた昭和25年のことである。

Ⅱ「とはずがたり」とは「誰に問われるでもなく自分から語ること」という意味です。

自伝形式の物語的日記文学で、これを誰よりも先に読むこととなった山岸徳平氏は、平安時代に書かれた『蜻蛉日記』にも対等すると直感したという。

作者=主人公は鎌倉時代中後期に、後深草院(天皇)にお仕えした女房(女官)です。

この女性「後深草院二条」の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、天皇の女性問題、宮中行事、出家して出かけた旅の記録などが綴られている。丁度その間に起こった元寇襲来については全く触れられていないが、その他の歴史上の事象が伺われる場面がみられることや一人称、自己言及形態である点から日記文学に分類される。

Ⅳ『とはずがたり』は、『源氏物語』が意識されて書かれており、『源氏物語』受容作品として古典文学研究の対象にもなっています。

平安時代、紫式部によって書かれた『源氏物語』(五四帖)は男性「光源氏」が主人公となって繰り広げられる恋愛物語でもあります。『とはずがたり』の場合は女性「後深草院二条」と関わった5人の男性との出来事が宮廷生活を中心に描かれて、中世の世相を描写する結果にもなっている。

Ⅴ『とはずがたり』という作品は現在のところ宮内庁書陵部本しか見つかっていないために、天下の孤本といわれています。

古典文学といわれるものは、当然作者の自筆本からはじまり、それを写すことによって広く後世に伝えられてきた。乱や大火や地震などの自然災害などで後々に伝わらなかった本も多くあったけれど、例えば『源氏物語』などは多くの伝本があり、写されたり語られ伝えられる途中で変わってしまった箇所もみられる。それぞれの伝本の傾向から、写本伝本を系統分けするほど多くの本が今日まで伝えられてきた。それを思えば、5巻からなるこの『とはずがたり』という作品が他からは全く発見されていないという事実もまた作品を読む上で何らかの解釈を付与するものと言えるのではないだろうか。例えば、宮廷秘話の漏洩を避けるといった類のようなものも含めてである。

 [本日の場面]新春の御所(ごしょ)  私訳(分かりやすくする為に、直訳ではないことをご了承ください)

一 新春の御所、父と後深草院の密約

一夜があけると新春です。御所ではこの立春の霞の空をだれもが待ちかねていたように、皆、いっせいに思い思いに着飾って、美しさを競って並んでいるので、それはそれは花を折って並べたような美しさです。そこへ(十四歳になった)私も人並みに(女房装束に身を包み)装って、御所さまのお前へ出ました。その時の私の衣裳は、蕾紅梅だったかの衣(きぬ)七枚重ねに、紅の打(うち)衣(ぎぬ)、萌黄(もえぎ)の表(うわ)着(ぎ)、赤色の唐(から)衣(ぎぬ)などだったと記憶しています。下には梅唐草を浮き織りにして、唐風の垣(かき)と梅の縫い取りのある、二枚重ねの小袖を着ていたのです。

今日の「お屠蘇の儀」にはわたくしの父である大納言久我雅忠(まさただ)がお給仕として奉仕されます。簾の外での儀式が終わると、今度はまた院が大納言を簾の内へお召し入れになります。台盤所の女房たちなどもお召しになって、ひどく念のいった酒盛りのなさりようです。先の簾の外の式でも三々九度を、といって九度の献杯だったので、父大納言は内輪のこの御祝のお酒でも、「その数でいたしましょう」と申されたけれども、後深草院は「こんどは九杯ずつの三度にしよう」とおっしゃられて、御所様も臣下もみなひどく度を過ごしてお酔いになってしまわれたのです。その後に院の杯を大納言に賜る際に「この春から『たのむの雁』をこちらの方へよこすのだよ」と耳打ちされたのでした。むろんその時のわたしは、そのようなお言葉があったなどとは知るよしもありません。父が格別かしこまって、九杯ずつ三度の杯を頂戴して退出するときに、何事かひそかに仰せ事をされたとは見えましたが、どういうことを仰せになったかは分かるはずもございませんでした。
               



古典文学講座『とはずがたり』 2010年5月20日

正月の儀式が終わって、局(自室)に下がった時のことです。
今日の場面は、二条の知り合いらしき男性から豪華な衣裳に手紙(和歌)を添えて
届け物があるところです。

〈私訳〉
二 恋人(雪の曙)より文と贈物

 拝賀の式が終わった後、自室に下がっていると、
「昨日までは、雪のようなあなたでした。出仕なさった今日からは雪に踏み跡をつけるように、
(付け文)を差し上げましょう、行く末ながく」などと書いたお手紙がありました。
またそこには紅から順に薄くして白に至る八枚重ねの袿(うちき)に、濃い紅の単衣(ひとえ)、
萌黄色(もえぎいろ)の表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、袴、三枚重ねの小袖、二枚重ねの小袖などが、
平らな布包みにした届けものが置いてあります。

まったく思いがけないことで、このような物は、お返ししようと思い、見ると、
衣の袖の上には 薄様の紙切れに歌を書いたものがあります。
「夫婦となることはできなくても、せめて鶴の毛衣ならぬこの衣裳を着慣れて下さい」
という意味の和歌がしたためてありました。

せっかく心をこめて用意してくださったものを、むげに返すのも薄情な気持はしながらも、

「ご一緒になれないのに、この衣裳を着慣れてしまってよいものでしょうか、それではかえって悲しみの涙でいよいよ袂も朽ちてしまうでしょう」という意味の和歌に、
「私へのお心が将来も変わらなければ、またいつか頂く折もございましょうから」
などと書いて衣裳の贈り物はお返ししました。

(その後)
 御所の宿直に参ったところ、夜半ごろに裏口の遣り戸を叩く人がいる。
何気なく小さい召使いの少女が開けると、物を差し入れて
その使いの人はそのまま見えなくなったということで、
また、さきほどのとおりの物が届いている。そして、上の置かれた歌には

「かねて約束したあなたの心の行末が変わらなければ、夜にはこの着物の袖を片敷いて
独り寝てください」とあった。 
これを、どこへまた返してやるということもできないので、手許に置きました。

 正月三日の日に、後嵯峨法皇の御来訪が この御所(ごしょ)へあった折に、
私がこの衣裳を着て出ましたところ、

父大納言が、
「色も艶も格別立派な衣裳にみえるが、御所様から頂いたものか」
と尋ねるにつけても、胸がどきどきしましたが、

「常磐井の准后様から頂きました」と、素知らぬふりして答えておきました。



男性から届けられた衣裳は

紅から順に薄くして白に至る八枚重ねの袿(うちき)に、濃い紅の単衣(ひとえ)、
萌黄色(もえぎいろ)の表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、袴、三枚重ねの小袖、二枚重ねの小袖など

とありました。
これは女性の盛装、十二単衣のプレゼントということです。

女房装束
袿(うちき)・単(ひとえ)・表着(うわぎ)・唐衣(からぎぬ)・袴(はかま)は上図に見えています。
小袖は下に着ていて見えていません。平安期は筒袖だったものが、やがて袂(たまと)を加え、
鎌倉期には武家や庶民も小袖を内着や上着として用いました。



古典文学講座『とはずがたり』 2010年6月3日

これまでの登場人物及び話題となった人物について

後深草院→この年29歳。父後嵯峨院、母大宮院。4歳で即位、17歳には両親の意向で不本意にも
          弟の亀山天皇に譲位させられる。ここ冒頭では譲位してからすでに十余年になっている。

久我雅忠→父、この年44歳、大納言正二位で、源氏の長であり、院の近臣でもあった。
         位階   正一位・従一位    太政大臣
              正二位・従二位    左大臣・右大臣・内大臣
              正三位・従三位    大納言・中納言

         父雅忠はこの時正二位(しょうにい)であったにもかかわらず、大納言であった。間もなく
         昇進が予想されていた時期であったよう。       

大納言典侍(だいなごんのすけ)→母、作者2歳の時に亡くなる。四条隆親の娘で、後深草院の
                 幼少時に仕えた女房であり、院にとっては特に思い出のある女性であった。
                 北山准后は伯母にあたり、西園寺公相とは従兄妹。
     典侍(すけ・ないしのすけ)
        「典」は書物、儀式を意味する語で、儀式張った書類を扱う女性のこと。
         天皇の女性秘書として直接お仕えする女性なので、貴族の娘がなる。


雪の曙→ 作者の初恋の男性と思われ、西園寺実兼が擬せられている。
         西園寺実兼は当時23歳。権中納言正二位。すでに息実衡がいる。
         藤原氏北家公季(きんすえ)流に属す名家である。父公相(きんすけ)は大宮院の兄に
         あたるので、大宮院は叔母であり、後深草院等とは従兄弟にあたる。         

北山准后(きたやまのじゅごう)→准三后従一位藤原貞子。准后は三后(太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮)
     に准ずる待遇を受ける人の称。常磐井太政大臣、西園寺実氏室。実兼の祖母。作者の母の伯母になる。


 <私訳> 三 父邸に退出

 一月の十五日の日に、河崎の父の邸から私を迎えにと、人がやってきた。急なことで、煩わしくも思ったけれど、いやと言うわけにもいかないので、御所を退出した。家に着いてみると、なんとなく、いつもの年よりも晴れやかで、屏風や畳、また几帳、室内の引き回しの幕まで、特に心配りされていていつもと様子が違っている。そうは感じたけれど、年の初めのことだからかしらと思っただけで、その日は暮れた。
 次の日になると、家では「召し上がりものは、何はどのようだ」と大勢集まって騒いでいる。「殿上人の馬はどこそこに繋ごう、公卿の牛車の牛はどうこうしよう」等とも言う。祖母である久我の尼上などもやってきて、みな集まって騒いでいるので、「何事でしょう」と私が言うと、父大納言は笑って、「いやなに、今晩は後深草院が方違えにお越しになるとおっしゃっている。年の始めでもあるしで、特別きれいにするのだよ。それで、お給仕の役にお前もこちらに来て貰ったのだ」と言われるので、私が「あら、節分でもないのに、何の方違えかしら」というと、「あらまあ、(察することもできないで)しょうのない子ね」と言ってみんなで笑う。しかし、私がどうしてそのわけが分かるだろうか、私がいつも居た部屋にも立派な屏風を立てて、小型の几帳なども枕元にある。「私の部屋までお客様があるのですか。こんなに綺麗にしてあるのは」と言うと、みんな笑うが、それについての説明をしてくれる人はいない。
 夕方になって、白い三枚重ねの単衣の着物と、濃い紅の袴を持ってきて「これを着るように」といってよこした。部屋にお香を、どこからともなく香りが漂ってくるようにして薫いている、その様子もいつもと違い、ものものしい様子である。灯をともした後、大納言の北の方(継母)が新調の色鮮やかな小袖を持ってきて、「これを着なさい」という。またしばらくして父大納言がこちらに来られて部屋の棹(衣桁)に御所様のお召し物を掛けるなどして、「御所様の御幸まで寝入らないでよくお仕えしなさい。女房は何事もさからわないで、人のいうままなのがいいことだよ」などと言われるのも、一体何のために教えられるものとも気づきようもなかった。私はなんとなく煩わしく思って、炭櫃(角火鉢)のもとに寄り臥して寝入ってしまった。


※今回の場面の中から、取り上げた事項は
まず、方違え(かたたがえ)について。
→陰陽道(おんようどう・おんみょうどう)からくるものです。
陰陽道はもとは万物を体系的に説明しようとする宇宙理論でした。中国では宗教や哲学へと発達したのですが、
日本では占い(易学)として定着しました。吉凶を占うなかに方角もあるのですが、行ってはいけない方角を
「方塞がり」といいます。「方塞がり」のために行けない場合には、一旦知り合いの家に泊めてもらい、方角を
変えることで凶を避けたのです。こうして方角を変えて泊まることを「方違え」といいます。  お泊まりできる!
プロフィール

Keiko

Author:Keiko
写真:【 唱歌:「案山子」の立つ見沼氷川公園】

こんにちは! 日本古典文学
研究に従事しているものです。
子育てがほぼ終了という頃に
大学院に入学、現在は 古典
文学講座の講師をしています。

こちらには 自然と文化と歴史
を感じながら‘知るを楽しむ’
日常を記しています。         
     

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